ドイツでも崩れる伝統的な雇用関係

 

 ドイツに関して、質実剛健、勤勉、保守的というイメージを持っている日本人は少なくない。しかしこの国でも、伝統的な雇用関係は急速に崩れつつある。

 

* 高い労働コストが原因

 その発端は、経済のグローバル化に適応するために、政府や企業が、この国の経済のアキレス腱である高い労働コストについて、具体的な対策を取り始めたことにある。

ドイツ経済研究所が発表した、各国の1時間あたりの労働コストに関する統計によると、2004年に旧西ドイツの労働コストは27・6ユーロで、デンマークに次いで世界2番目の高さだった。これは米国を47%、日本を54%上回る数字だ。

 労働コスト高騰の原因は、かつてドイツが世界でも有数の社会保障大国だったことである。

東西が統一されるまで、西ドイツでは、公的年金保険からの年金だけで老後を過ごす市民が少なくなかった。健康保険は、メガネのレンズとフレーム、6週間の転地療養休暇(クアー)までカバーしてくれる。

 だが、この手厚い社会保障制度は、ドイツ経済の国際競争力を弱めた。2006年の時点でサラリーマンや労働者は、所得の41・8%を、年金保険、健康保険、失業保険、介護保険のための保険料として払っている。

企業経営者は、正社員のために社会保険料の半分を負担しなくてはならない。

また、この国では日本や米国以上に、産業別労働組合や企業別の組合(事業所委員会)の影響力が強く、賃上げ圧力は決して弱まることがない。

つまり経営者たちにとっては、人件費の高騰が大きな悩みの種なのだ。

 当然、ドイツ企業は雇用を拡大せず、業績が悪化した時には人員削減によって労働コストを減らそうとする。

このため1994年以来、ドイツでは失業率が10%を超える状態が、ほぼ当たり前になってしまった。

2005年2月には、完全失業者数が528万人に達し、失業率12・7%という戦後最悪の数字を記録した。失業者数は、景気とは無関係に400万人と500万人の間を、行ったり来たりしている。

 かつてはポルシェを乗り回していたが、失業してホームレスになり、インターネットカフェから「すぐに50ユーロを口座に振り込んでくれ」とメールを送ってきた知人。

アルコール依存症になり、午前2時までビールを飲みながら、テレビを見て、隣人の安眠を妨害する失業者。

「今後6か月分の給料を支払うので、明日から会社に来ないでよい」と突然言い渡された会社員。

私の身の回りでも、大量失業禍の犠牲者となる人が、増えている。

 統一から16年も経っているのに、いまだに経済状態が回復しない旧東ドイツでは、2003年に失業率が20%に達し、西側の2倍以上になった。旧東ドイツでは、生産性の上昇率に比べて賃金の上昇率が高かったため、西側企業はこの地域を素通りして、労働コストが安いチェコやポーランド、ハンガリーなどに生産施設を移転させているからである。

東では思うように仕事が見つからないため、技能とやる気がある若者たちは、旧西ドイツへ移住しつつあり、旧東ドイツの人口は今でも減っている。

かつてドイツは労働力不足を補うために、トルコなどから「労働移民」を受け入れた国として有名だったが、最近では職を求めて外国に移住するドイツ人が増えている。2004年には、15万人が国外に移住したが、これは過去120年間で最高の数字である。

* シュレーダーの労働市場改革

 1998年から2005年まで政権を担当したシュレーダー氏は、この構造失業にピリオドを打つために、戦後最も大胆な労働市場改革を実行した。

彼は「ハルツIV」と名づけられた改革法によって、失業保険の給付金を、生活保護と同じ水準まで減らした上、給付の基準もこれまでに比べて、大幅に厳しくしたのである。

原則として、旧西ドイツの独身の失業者が毎月もらえる失業手当は、345ユーロ(約5万3000円)となる。この額では、働かなくては食べていけない。

改革前のドイツでは、レストランやホテルなど、給料が低い領域で働くと、手取りが失業保険の給付金よりも、低くなってしまうことが多かった。

これでは、汗水たらして働こうという気にはならない。

支出を切り詰めれば、失業保険の給付金だけで生活することは可能だった。

つまりシュレーダー氏は、長期失業者の保護を減らすことによって、彼らが再就職するための圧力を高めようとしたのである。

改革は功を奏し、2006年の11月には、4年ぶりに失業者の数が400万人を割った。1年前に比べて、失業者数が50万人も減ったことになる。

だがこの改革は、将来ドイツでも「ワーキング・プアー」が増える可能性を示唆している。

レーゲンスブルク大学のヴォルフガング・ヴィーガント教授は、「ドイツの失業問題を根本的に解決するには、米国のような低賃金部門を認めることが必要だ」と主張する。

だが、一つの仕事だけでは、生活できないほどの低賃金を認めるかどうかは、社会的市場経済の原則に反するので、市民の反発も予想される。

この国では、貧困層に属する市民の比率が増加しており、2005年には13.5%に達した。

 

* 派遣社員を増やすドイツ企業

一方、ドイツ企業は高コスト体質を改善するために、雇用形態を変化させつつある。

銀行、保険会社など、これまで「安定業種」と信じられてきた企業が人減らしを進める一方、人材派遣会社は、急激に雇用を増やしている。

たとえば2006年の上半期に、最も新規採用者が多かった企業10社の内、上位4社が、人材派遣会社だった。

この4社だけで、半年間に2万1500人を新たに採用している。

派遣社員の数は、2002年から2005年までに約33%増加して、44万4000人に達した。

ドイツ人材派遣企業協会では、2007年にも派遣社員の数が2桁の成長率を示し、50万人の大台を超えることは確実と見ている。

派遣社員への需要が高まったために、一部の人材派遣会社は、エンジニアなど人気のある職種について、十分に派遣社員を見つけることができなくなっているほどだ。

高い労働コストに悩むドイツ企業にとって、人材派遣ブームは福音である。

1990年代の後半から、銀行業界でリストラの嵐が吹き荒れたため、人材派遣会社には高いPCスキルや、豊富な職務経験を持った人が多い。

ドイツの労働契約によると、正社員は、半年の試用期間を終えると、無期限に雇用される。

しかもこの国には、「解雇からの保護法」という法律があるので、経営者にとっては、勤続年数が長い正社員を解雇するのは、容易ではない。

労働組合が同意しない限り、原則として正社員の解雇はできない。

また、解雇された労働者が労働裁判所に提訴した場合、経営者が敗訴して、高い退職金を払わされる確率は高い。

このため、経営者にとっては、雇用期間が限定されており、解雇が簡単な派遣社員は、人件費を削減する上で、便利な存在なのである。

正社員とは異なり、派遣社員に対しては、昇給や企業年金といった配慮も不要である上、労働組合による保護もない。

またドイツ企業では、日本よりも女性社員の比率が高く、女性が重要なポジションに就いていることが多い。

女性社員が出産と育児のために休職する場合、企業は数年後にその社員が復職する時に、同等のポストを与えることを義務づけられている。

このような女性の育児休暇期間中に、正社員をもう一人雇うのではなく、派遣社員によって穴埋めする企業が増えている。

つまり派遣社員は、硬直した雇用制度を迂回する上で、重要な武器なのである。

このため、今後ドイツ企業が、人件費を節約するために、秘書や経理、ITなどの部門については、正社員の比率を徐々に減らし、派遣社員の比率を増やしていくことは、確実だ。

またドイツには、前述のように初めから正社員として採用される社員とは別に、実習生(見習社員)として仕事を覚え、企業が気に入った場合には、実習生を正社員として採用するという制度がある。

だが高い学歴を持ちながら、希望の職種で正社員になることができずに、実習生としてしか働くことができない若者も、徐々に増えている。

若者たちは、大手企業で実習生として働いたことを履歴書に書くと、プラスになると考えるので、彼らはこぞって実習生になろうとする。

企業にとっては、薄給でも喜んで働いてくれる実習生は、ありがたい存在なのである。

ドイツ社会では、こうした傾向について、批判的な声は出ていない。

経済グローバル化に適応して、人件費を減らすには、派遣社員の増加はやむをえない措置と考える人が多い。

ドイツでは、日本と異なり偽装請負や偽装出向は大きな社会問題になっていない。日本以上に、労働基準監督署の監視が厳しいからである。

だがこの国でも正社員になることは、以前に比べて難しくなっており、1つの企業に20年、30年勤める人の数も急速に減りつつある。

このことは、ドイツ社会で勤労に対するイメージが変わっていくことを意味する。

ドイツでは、これまでも日本に比べると別の会社へ変わる社員の比率が高く、一般的に会社への帰属意識が希薄だった。

だが派遣社員の増加は、企業への忠誠心や、企業マンとしてのアイデンティティを、ますます弱めるに違いない。雇用の流動性はさらに高まり、社員の技能が一段と重視されるようになる。

さらに、正社員の比率が減ることによって、社会が安定した所得を持つ階層と、所得が不安定な階層とに分かれていくため、中間層の減少に拍車がかかるに違いない。

2006年には、「他の階層から大きく水を開けられた、プレカリアート(脆弱な人々)」という言葉が注目を集めた。ここでも、勝ち組と負け組の差が明確になりつつあるのだ。

伝統的な雇用関係が大きく揺さぶられ、社会構造に大きな変化が起きようとしているという意味では、ドイツの勤労者も日本人と同じ状況に直面しているのだ。

熊谷 徹

週刊東洋経済 2007年1月13日号 掲載